trail

そのままです

12/18 銀のライター

男はふと目を覚すと、昏く、凍てつく様に寒い冬の森に居た。

居たという表現が、もし意思を持ってその場所に存在する事ならば間違った表現になるが、それでもそうとしか表せなかった。

草臥れたトレンチコートのポケットからもう5、6年は使い込んだ携帯を取り出し、時間を見ると、真夜中の三時を回っていた。

左上には圏外と表示されており、もう都会に住んでからは幾分見なくなっていたその表示に少し寒気がした。

男は生まれは東北の郊外だった為、割りかし寒さには自信があったが、それでも震える様な冬の寒さだった。

ここに留まっていても埒が開かない。

男は少し息を吐いてから立ち上がり、携帯の光を頼りに立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。

しかし、歩き始めて直ぐに左の足首に鋭い痛みが走り顔を歪めると共に、会社の飲み会の帰りに転倒し、捻っていた事を思い出した。

男は軽く舌打ちをして、左足を庇う様にしてまた歩き始めた。

シャクシャクと軽く小気味良い音を立てる霜柱を踏みながら足を進めながら、何故この様な森の奥に自分がいるのかと考える。

確か、足を現に捻っているのだから、会社の人間と酒を煽っていたのは少し前なのだろう。

男は真面目一辺倒であり、酒を飲むのは会社の相手から誘われた時だけは仕方なく、というスタンスであったから、思考が上手くままならない今でも、一人で飲んで酔った挙句この森に迷い込んだ、という訳はあり得ないと断言できた。

そうとなれば、恐らく飲ませてきたのは酒に強く、部下をいつも誘っている係長なのだろうという事も男の頭に浮かんできた。

男は30後半であり、比較的社内では手間の良い方だったが、人付き合いが苦手で寡黙な為、出世ルートからは外れていた。

その反対とも言える男がその係長であり、自分は仕事ができる方ではなくとも、仕事を小狡く人へと回しては手柄を主張し、気づけば30前半で社長に気に入られ係長に今年の4月に上り詰めた、狸の様な大男だった。

普段から飲み会に誘ってくる事も、酒好きではない男にとっては忌々しかったが、今この森に居る事も、無理に飲まされた事が原因かもしれないのだと少しでも思うと、あの髭を伸ばした顔に腹が立って仕方がなかった。

遠くにいる、いや、そもそも遠くか近くかすら、森の場所が見当もつかないので分からないが、男は係長への悪態をつきながら暫く足を進めた。

段々と手が悴み、感覚が薄れ、少し意識が朦朧となってきた所で、小さく水音が聞こえる。

微かに水がせせらぐ柔らかな音は、先程まで酒に酔っていた男に喉の渇きを訴えた。

目的のない放浪をしていた男の頭は目的を、体は必要な水分を求めていた。

即座に決断をするまでもなく足は水音の方角に向いた。

浮かされる様にして小さな崖を降り、木々を掻き分けて進むと、案外早く湖にたどり着いた。

湖と呼ぶにしては小さいが、水溜まりと表すには大きいそれは、月明かりに照らされて キラキラと光り、横に聳え立つ、一際大きい檜に護られている様に感じられた。

左足を庇う様にしてしゃがみ、悴んだ手で水を掬って飲むと、男は生命が、自分自身の奥底が満たされる様な充足感を覚えると共に、どこか懐かしい、幼い頃にも同じ様な事をしていた様な懐かしい感覚に襲われた。

思い出せばまだ十にもならない頃に、祖父と一緒に探検に出かけた事が何度もあった。

冬にも出かけ、雪だるまを作った事もあれば、ソリに夢中になり、身体中が霜焼けになってしまった事もあった。

そんな事を思い出し、男は此の森に辿り着いてから初めて笑った。

最後に笑ったのはいつだっただろうか。

30を超え、仕事がルーチン・ワークと化した辺りから、親しい友人も居なければ、恋人もいない男にとって、単調な日々は毒となり、彼という人間を蝕んでいた。

唯一心を許せる家族は東北に未だ住んでおり、彼の心の大切な支えだった祖父と祖母は昨年他界した。

いつも祖父の世話が大変だと笑いながらぼやいていた祖母も、祖父が逝ってから100日も経たずに亡くなった。

殆ど同時に二人の肉親を失った母親のショックが大きく、母親を慰めるので手一杯で男はその時は悲しむことさえ許されなかった。

父は寡黙で、母を慰める様なことはしないし、唯一の兄弟である姉は、男が高校に通い始めた頃、東京へと飛び出して以来、一度も帰っていなかった。

ふとそんな事を思い出すと、穏やかだった祖父母の顔がぼんやりと頭に浮かび、漸く男にもう会う事ができないのだ、と現実を告げた。

肌寒い風が、余計に東北を駆け回った幼少期を頭に呼び起こし、自然と涙が溢れた。

人に溢れ、我を忘れて休む時間を与えない現代社会に適応していた男にとって、皮肉にも、止まっていた時間を動かしたのは此の薄暗い森であった。

幾度か深く息を吸い、吐いてを繰り返して、彼は直ぐ様右のポケットに手を突っ込み、手慣れた仕草で煙草の箱を取り出した。

この手慣れた仕草こそが、生真面目な彼がこの世を渡り歩いてきた証であった。

彼が煙草に手を出したのは、24の年の暮れ、此れもまた冷え込む日に、若手に振られるあまりの残業の多さから、ふと気を紛らわせようと始めてしまった。

彼の母は嫌煙家であり、彼に煙草には手を出すな、と口を酸っぱくして言ったものだが、試しにと1本吸うと、荒んでいた彼にとって、苦しい時間を燻らせ、煙と一緒に吐き出せてしまう此の便利な品物は手放せない体の一部になってしまった。

煙草の箱を開けて覗くと丁度最後の一本だった。

その一本の煙草を取り出そうとすると、どこか手に違和感を感じた。

表面に、紙らしくはないつるつるとしたセロハンテープの様な感覚を手に覚えたのだ。

取り出して、携帯のライトで照らすとやはり煙草ではなく、セロハンテープで巻かれていた。

小さい紙を窮屈に丸めて、セロハンテープで留めた様に見える「それ」を眺めた途端、男に一筋の記憶が戻った。

「思い出したか」

突然、地鳴りの様な低い声が男に語りかけた。

「お前が此処に、どうしてやって来たかを」

誰とも分からない、聞いた事のない低い声だったが、男にはどうにも名を尋ねる気にはなれなかった。

まるであの大きな檜に語りかけられている様にすら感じた。

「判っているだろう」

男は此処に来た経緯を思い出した。

丸められたその紙は、短く纏められた男の遺書であった。

大切な祖父母を失い、心の支えを失った彼は、自らの将来に希望を見出せず、此の森に紛れ込んだのだった。

短い遺書には、彼の使わずに溜め込んだ金は両親に渡し、葬式も墓もできるだけ安く済ませて欲しいとしか書かれていなかった。

「お前はお前の生を此処で果たそうとして此の森に入り込んだのだ。その臆病な自尊心と共に」

しかし、男は決して此の社会の犠牲者でもなければ、謙虚な人間でもなかった。

彼という人間が、此の選択に至った最たる理由は、増長したプライドであった。

小、中学生時代から運動もからっきしで、人付き合いも苦手、本を教室の端で読む事が唯一の安らぎであった彼にとって、人に抜きん出る事のできる数少ないものこそが勉強であった。

彼にとって、母に褒められ、寡黙な父からも認められる勉強は、彼の得意な事から、彼の一大アイデンティティになり、大学に入る頃には遂に彼そのものへと変貌を遂げていた。

しかし、上京し入学した大学で待ち構えていた天才に鼻を折られ、挫折を味わった彼は、彼そのものを否定された様な苦しみに苛まれながら昨日までを生きていたのだった。

自分より優秀な人間がそこら中にいた事も、あの若い係長に出世を越された事も、全てが彼にとって責苦となっていた。

「故に、私がお前の望み通りにしてやろう。此の森で一度眠れば、お前の体は少しずつ溶け、森の養分となり、お前は森の一部になるのだ。そうすれば、もう二度と争って苦しむ事も、醜い自尊心を捨てきれず悩む夜も来ない」

既にその声を聞きながら、男の体は言う事を聞かなくなり始めていた。

水を飲んだ事で体の深部が冷え、低体温症になっていた。

「さあ、そのまま横たわるのだ」

足が痙攣し、その勢いで横たわると、不思議と冷たい筈なのに暖かい様な感覚に陥った。

このまま眠って事切れるのも悪くない。

もう、苦しみながらする報われない努力も、自分自身の醜悪さへの嫌悪感も、望まずとも心を締め付ける嫉妬もしないで済む。

これまでより、よっぽど純粋で、澄んだ心で生きていけるのではないか。

そう思いながら目を瞑ると、これが走馬灯というのだろうか、家族や東北の数少ない友人の顔が浮かんだ。

もう随分会えていない姉は今どこで何をしているのだろうか。

父と母は自分が死んだと知って悲しんでくれるのだろうか。

家族に思いを馳せた後、次に浮かんだのは友人Tであった。

高校時代、右手で数えられる程の人としか話さなかった、自分の会話の大部分はこのTという男相手であった。

同級生で唯一本について詳しく、話し相手となってくれていたTと偶に本屋を巡るのを密かに楽しみにしていた事も、今になって情景が帰って来た。

男が高三の秋、上京すると宣言して唯一悲しんでくれた友人もTだった。

もう少し悲しむ人間がいる筈と思っていた男はその当時はショックを受け、気づけなかったが、Tが悲しんでくれる事がどれだけ有り難い事だったのだろうと今になり男は気がついた。

そんなTが最後に会った卒業式の別れ際に餞別として渡してくれたのは銀でできた、高校生の贈り物には少々高いライターだった。

男が将来煙草を吸う気はないぞ、と言うと、Tはそれでもそれを見て偶に自分を思い出してくれ、と笑っていた。

そう言えば、あの別れた日も此のトレンチコートを羽織っていた覚えがある。

もう殆ど動かない手でポケットの奥を探ると、硬い感触が確かにあった。

あの日に貰ったライターが、そのままで残されていた。

なんとか力を振り絞ってポケットから取り出し、蓋を開けてホイールを回すと、明るい小さな火が灯った。

小さく、揺れながら、消えそうになりながらも灯る火を見て、男は久方振りに、生きたいと心から自分が願うのを感じた。

そして、男はそうするべきであった事を知っていたかの様に、ライターをトレンチコートに当てた。

炎は徐々に大きくなり、広がり、男を飲み込み、煌々と燃え盛った。

燃え盛る中で、男は身体中が焼ける貫く様な痛みを感じながら、ゆったりと目を閉じた。




男が目を開けると、目の前には古びたバス停があり、男は錆びたベンチに腰掛けていた。

辺りを見渡しても、あの檜も、湖も、凍える寒さもなく、少しずつ朝日が昇り始めていた。

男は一度深く息を吐いてから吸い、冷たい朝を感じながら、ポケットを漁る。

ポケットの中には、煙草は入っていない煙草の箱と、銀のライターが確かにそこにあった。

暫く不思議そうに眺めた後、男は銀のライターで煙草の箱に火をつけて、道路脇に置いた。

そして、携帯を取り出して、携帯の連絡帳を漁り始める。

人生とは数奇なものだ。此のトレンチコートを着ていた事も、現実かわからない体験も、あの薄暗い森も。

しかし、何が起ころうと、男にとって、次にする事はもう決まっていた。

銀のライターを握り、幾つか連絡を取る男は、漸く憑き物が取れた様な、失くしたものが見つかった様な、そんな朗らかな表情を見せた。

朝一番のバスに乗り込み、窓から見える朝日は、何かを祝福するかの様に、暖かく森を見守っていた。